関ヶ原ウォーランド

藤堂高虎

1556年月日、源助虎高の次男『与右衛門』として

近江犬上郡藤堂村にて誕生。

築城の名手として有名であり、京都・伏見城、丹波・亀山城、

伊賀上野城、宇和島城、今治城、津城、江戸城、篠山城、

大阪城、二条城、紀伊・和歌山城などの増改築等を手掛けた。

後に『高虎』と改名。

最初は、浅井長政に仕えるが、1576年に羽柴秀長の家臣となる。

1587年、紀州粉川2万石の領主となる。

1591年、秀長没後、その養子・秀保の後見人となるが、

その秀保が1595年に大和十津川で溺死すると、

その責任を負って高野山に登って剃髪する。

豊臣秀吉に召喚され、伊予宇和島城(7万石)の城主となる。

その後、徳川家康に近づき、石田三成の策略を密告するなど、

家康の為に、貢献した。

1600年9月、関ヶ原の合戦に東軍(藤堂高虎隊)として参加。

前線で大谷吉継軍や石田三成軍を倒し、西軍に勝利。

その戦功を買われ、戦後、伊予今治国分城(20万3000石)の城主となる。

1622年、伊賀・伊勢安濃津(22万4000石)の津藩初代藩主となる。

大阪の夏の陣では、関ヶ原の合戦でも敵軍であった長宗我部盛親と対戦。

戦後、家康を救った戦功により、1617年に加領、32万3950石となる。

1630年10月5日死去。享年75歳。

 

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