関ヶ原ウォーランド

長宗我部盛親

1575年、長宗我部元親の四男『千熊丸』として誕生。

吉良氏を継いでいたが、1586年、兄・信親の死により、『盛親』と改名。

1599年、元親の後を継いで土佐浦戸城主(22万石)となる。

1600年9月、関ヶ原の合戦に西軍(長宗我部盛親隊:戦力4400)として参加。

毛利秀元の指示で動くことになっていたが、

吉川廣家の徳川軍への内通により、戦わずして敗戦。

吉川廣家が家康側に申し出た「所領安堵の約束」により、

土佐の領土を奪われることはなかったのだが、

帰国後、家康と親交のあった兄・親忠を殺害して、

徳川家康の怒りを買い、土佐22万石を失う。

その後、浪人となり、京都で寺子屋をしていたが、

大阪夏の陣に豊臣秀頼軍に参加し、

藤堂軍に多大なる被害を与えるものの敗戦。

1615年5月15日、京都六条河原にて斬首刑。享年41歳。

 

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