関ヶ原ウォーランド

毛利秀元

1579年、穂田元清(毛利元就の四男)の息子『宮松丸』として

備中猿懸城にて誕生。後に『秀元』と改名。

1584年、毛利輝元の養子となるが、輝元の実子・秀就が生まれると、

身を引き、別に一家を築く。

1592年の朝鮮出兵の際には、14歳ながら毛利軍の総大将として出陣。

1597年の再出兵の際には、全軍の総指揮官として出陣し、戦功をあげた。

1600年9月、関ヶ原の合戦に西軍(毛利秀元軍:戦力15000)として参加。

しかし、若干21歳の秀元は、石田三成軍の再三の出陣要請を受けながらも、

目の前に布陣する吉川軍が動かない状況を見て、

どうしていいかわからず、安国寺恵瓊の助言を待っていた。

結局、吉川廣家の徳川軍への内通により、戦わずして敗戦。

1650年10月江戸にて死去。享年72歳。

 

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