関ヶ原ウォーランド

安国寺恵瓊

1534年、安芸国守護武田氏の一族、

武田信繁重の息子『竹若丸』として誕生。

大内氏との戦いで武田氏が滅亡後、安国寺に身を寄せ、出家。

竺雲恵心の弟子となり、仏教修行に励む。

1569年、安国寺の住持になり、『安国寺恵瓊』と改名。

その後、毛利氏の外交僧として活躍。

羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)率いる織田軍の中国地方進攻の際に、

毛利側の使者として交渉し、以来、豊臣家との繋がりを深め、

豊臣秀吉天下統一の一役を担った。

1600年9月、関ヶ原の合戦に西軍(安国寺恵瓊隊:戦力1800)として参加。

毛利軍の表面的な采配者で、

合戦中、若輩者だった毛利秀元は、恵瓊の助言を待っていた。

もともと、石田三成が気に入らなかったせいもあり、

石田軍の再三の出陣申し出にも耳を貸さず、

ついには毛利軍を出陣させることなく敗戦。

1600年10月1日京都六条河原にて斬首刑。享年66歳。

 

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