関ヶ原ウォーランド |
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大谷吉継 |
1559年、大谷吉房(六角義賢の家臣)の息子『桂松』として
近江大谷村にて誕生。後に『紀之助』と改名。
1589年、越前敦賀城(5万石)の城主となる。
石田三成の紹介で、豊臣秀吉の小姓となる。
後に、石田三成とは、親友関係になる。
1600年9月、関ヶ原の合戦に西軍(大谷吉継隊:戦力5600)として参加。
同じ西軍の小早川秀秋隊が東軍 に寝返ることを予期していた吉継は、
藤古川の右岸台地に陣を取り、中仙道を介し、
同時に、怪しい動きを見せる松尾山・小早川隊に向かって布陣。
それを見た小早川隊は、なかなか裏切り行為に出ることができなかった。
初めは、大谷隊の前隊である平塚為広隊や、戸田・木下隊は、
小早川秀秋隊が西軍に向かって攻撃を仕掛けてくると、
本体救援の為に、引き返し、これが死闘の始まりとなった。
この間、小早川隊を幾度となく追い返し、善戦していたが、
そばに布陣していた小川隊、朽木隊、脇坂隊、赤座隊までもが、
東軍に寝返り、ここまで計算し切れていなかった大谷は、
平塚、戸田両氏とも討ち死にした後、
1600年9月15日、戦場にて自害。享年42歳。