関ヶ原ウォーランド

小早川秀秋

1582年、杉原家定(豊臣秀吉の兄)の五男『辰之助』として誕生。

秀吉の正室ねね(北の政所)に溺愛され、

1585年に羽柴秀吉(豊臣秀吉)の猶子となり、『羽柴秀俊』と名乗った。

1592年、小早川隆景の養子になり、1594年に家督を継ぎ、

筑前・筑後の領地を獲得し、筑前名島城主(30.73万石)となる。

同年、毛利輝元の養女・宍戸元秀女と結婚し、毛利家との繋がりを持つ。

1597年、『秀秋』と改名。

同年2月の慶長の役では、日本軍の総大将を務め、

釜山を本拠地にして戦線に立ち、大将自ら敵陣に討ち入り、

敵将を次々と討ち入る戦功を挙げたが、

大将にあるまじき行為と、秀吉の反感を買い、石田三成の進言により、

筑前・筑後の領地を没収され、越前に国替えさせられた。

秀秋は、三成に対して怒り奮闘であったが、秀吉の死後、

その遺言として、徳川家康の計らいで、筑前・筑後に復帰させられる。

1599年7月、豊臣五大老の一人となる。

1600年9月、関ヶ原の合戦に西軍(小早川秀秋隊:戦力15600)として参加。

しかし、裏で、西軍・東軍ともに秀秋に交渉をしていた。

西軍からは関白職への就任が約束され、

東軍からは、上方二国の進呈を約束され、

秀秋は、最後までどちらの軍に味方するか迷っていた。

戦いが酣になって、友軍の誘いや東軍からの督促があっても、

秀秋は容易に松尾山から降りようとしなかった。

正午を過ぎる頃、徳川軍からの銃撃(威嚇攻撃)により、

決意を迫られ、遂に大谷吉継の陣地に雪崩れ込んだ。

しかし、小早川隊15000の兵をもってしても、

わずか500余りの大谷隊を撃破することはできなかった。

まもなく、脇坂隊ら松尾山周辺に陣地していた西軍が、

東軍(徳川軍)に寝返って参戦。

東軍の藤堂高虎隊、京極高知隊の側面攻撃も加わり、

遂に大谷隊を撃破し、東軍を勝利に導いた。

この戦功により、敗軍(西軍)の武将・宇喜多秀家

旧領である美作・備前の領地を与えられ、

岡山藩主(51万石)となり、岡山城を拡張工事した。

この際に、わずか20日間で完成した外堀があり、

現在も二十日堀と呼ばれている。

1602年岡山城内にて死去。享年21歳。

 

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