関ヶ原ウォーランド

小西行長

1559年、堺の薬種商人である小西隆佐の次男『弥九郎』として

大阪・堺にて誕生。後に『行長』と改名。切支丹大名の一人で、

父・立左と共に、キリスト教徒で洗礼名は『アウグスティヌス(アグスチノ)』。

宇喜多直家に仕えていたが、直家が豊臣秀吉に仕えるやいなや、

秀吉の家臣となった。

1588年、肥後宇土城(24万石)城主となる。

1591年、出雲富田城主(14.2万石)になる。

1600年9月、関ヶ原の合戦に西軍(小西行長隊:戦力4000)として参加。

宇喜多秀家島津義弘の中間、北天満山に陣をとり、

東軍の寺沢広高、古田重勝、織田有楽、戸川達安の諸隊と交戦した。

しかし、小早川秀秋の反応で、陣中動揺し、その側面に攻撃を受けると、

前隊が総崩れになり、本隊は最後の一戦にも及ばずに敗走した。

1600年10月1日京都六条河原にて斬首刑。享年42歳。

処刑場でも、主の名前を唱え、手にキリストの画を掲げて刑についたという。

 

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