関ヶ原ウォーランド

島津義弘

1535年7月23日、島津貴久(薩摩藩第十五代藩主)の次男『又四郎』として、

伊作亀丸城にて誕生。後に『義弘』と改名。

島津四兄弟の一人で、兄弟の中でも最も勇猛であった。

1598年9月〜10月の泗川の戦いでは、明軍20万勢に対し、

島津軍5000の戦力で戦い、明軍戦死者38717名に対し、

島津軍戦死者2名という圧倒的な強さで、

見事に明軍を退却させたという戦功がある。

明軍に『鬼石曼子(オニシマヅ)』と言わせた節は有名な話である。

1600年9月、関ヶ原の合戦に西軍(島津義弘隊:戦力1500)として参加。

小早川秀秋らが寝返り、西軍武将 が奔走する中、

島津軍だけは、引かずに最後まで陣を構えて戦い続け、

東軍の勝利が、ほぼ決してから、最終的には、

目の前の東軍の中を突破して、前進しながら帰還した。

朝鮮出兵や関ヶ原の合戦における島津兵の強悍さを称え、

西軍(敗軍)で唯一、所領安堵を許された。

1602年、息子・家久に家督を譲る。

1619年7月21日大隈加治木で病死。享年85歳。

 

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