War Ruins in Tokyo

〜東京都の戦争遺跡〜


陸軍 立川飛行場
1922年に陸軍基地として開設。1928年からは軍用機メーカーである立川航空機の本拠地となっていました。1929年〜1933年までは民間の空港として利用され、その後は再び陸軍基地になりました。敗戦により、1945年に米軍に接収され、『フィンカム基地』(米軍立川基地)として使用されましたが、1969年に閉鎖、1977年11月30日に日本に返還されました。現在、一部は公園化しています。
※管理されています。一部公園化。

陸軍 燃料廠
1939年に陸軍燃料廠として開設された府中基地です。敗戦後に米軍に接収され、極東第五空軍司令部と在日米軍司令部が置かれました。この頃の名残で、通称『米軍府中基地』とも呼ばれています。1973年に通信施設を除く基地全体が日本に返還されました。現在は、一部が公園化し、一部は航空自衛隊の敷地になっています。
※管理されています。

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中島飛行機 浅川地下工場
元々は大本営の疎開先として掘削されたのですが、中島飛行機三島工場の疎開工場として転用された地下工場(発動機工場)で、第一〜第三工場まであります。計画面積353000平米のうち257000平米が完成し、工作機械も329台が納入され、4000人の従業員が配備され、1945年6月に操業開始し、発動機10台が作られました。
※管理されています。

陸軍 鉄壁山司令部壕
1945年、本土決戦に備えて、八丈島の鉄壁山に陸軍の司令部壕が掘られました。本体の総延長は1000mに及びます。4階層の地下壕で、最下層は川に直接通じていました。首都を守る最重要拠点とされていた為、島内の全ての地下陣地、地下要塞を含めると、総延長63kmとも言われています。
※管理されています。

東京第一陸軍造兵廠 第275号棟
正式には、『東京第一陸軍造兵廠十条工場第275号棟』といいます。かつては、たくさんのレンガ造りの建物がありましたが、自衛隊の敷地内にあったものは、戦後まもなく、次々に取り壊されました。自衛隊の敷地外にあったこの275号棟だけは、取り壊しを免れて残っていましたが、残念ながら、2006年に解体されました。
※解体されました。

海軍第二回天隊底土基地 二号壕
1945年、本土決戦に向けて、関東では唯一、八丈島に人間魚雷『回天』が配備されました。この底土には第一・第二壕があり、各々に二基ずつの回天が格納され、他に末吉地区に四基配備されました。最後まで回天が出動することなく終戦を迎え、爆薬部分は海中投棄され、胴体部分は壕内で爆破されました。陸側の第一壕は崩落しましたが、この第二壕は保存されています。
※管理・保存されています。

歩兵第三聯隊 兵舎棟
日本で最初の鉄筋コンクリート製の兵舎で、上から見ると「中」の字型をしています。聯隊本部と3個大隊と12個中隊が1936年まで入っていました。戦後は「東大生産技術研究所」として2000年3月まで使用されていました。現在は大部分が解体され、跡地には国立新美術館が2007年春に開館しましたが、写真のように一部(物性研Q棟として使われていた部分)は残され、国立美術館別館として復元保存されています。
※改装・転用されています。

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