War Ruins in Shizuoka

〜静岡県の戦争遺跡〜


海軍 大井航空隊
1942年4月に開設された偵察要員を養成さるための練習機の航空隊です。戦局が悪化し、1945年3月からは実戦部隊が置かれ、特攻部隊となり、練習機「白菊」を改造した特攻機で、白菊特攻隊が飛び立っていきました。現在は正門の門柱、電探講堂、レンガ壁、朝礼台などの地上施設と地下司令部跡やいくつかの地下壕が残っています。
※一般公開されています。

海軍大井航空隊 沢水加地下壕
1945年2月頃から、大井航空隊の基地の地下要塞化が始まり、基地の西側の沢水加、北側の大沢原、東側の三栗原の3方向から中央に向かって掘削されましたが、中央で繋がれる前に敗戦になりました。現在、沢水加地区の地下壕は、一部が地震観測所として転用されており、その他の部分は崩落したり、水没していたりしています。
※一部転用されています。

第51震洋隊 石基地
下田に本部を置く第十六特別攻撃隊の基地の一つで、手石地区から小稲地区にかけて23本の地下壕が掘られ、1945年5月に、第51震洋隊が置かれ、特攻艇『震洋』が45隻ほど配備されました。現在、この手石湾西地区には7本の格納壕が開口しており、そのうちの一つには掘削者と思われる氏名が四名分掘られています。
※管理されています。

横須賀海軍警備隊 無線格納壕
1945年3月頃から横須賀海軍警備隊によって掘削された三本の地下壕のうち、一番南側にある壕です。この壕は元々は銃器や無線を置くために掘られました。戦後、1960年代にはこの壕を利用してお化け屋敷が作られたようです。壊れたマネキンなどが展示されていました。残念ながら、他の二本の壕は埋められてしまって残っていません。
※管理人がいます。

画像準備中 中島飛行機 原谷地下工場
本土決戦に備え、中島飛行機浜松製作所の疎開工場として、1945年に建設された地下工場です。353000平方フィートの計画のうち、32000平 方フィートしか完成しませんでした。この地下工場では、従業員465名が配備され、クランクケースや大型の伝導装置を製造する予定でしたが、操業を開始する前に終戦を迎えました。現在、30箇所以上の横穴が、あちこちの山に点在して残っています。
※管理されています。

画像準備中 鈴木織機 金指地下工場
本土決戦に備え、鈴木織機の疎開工場として、1945年に建設された地下工場の一つです。二俣にも地下疎開工場が作られました。鈴木織機は、戦時中は、手榴弾、迫撃砲弾、高射砲弾、対戦車砲、高射機関銃、機関砲、照準器などを製造していました。戦後、鈴木織機は、スズキ自動車へと変貌を遂げ、現在に至っています。
※管理されています。

湊海軍病院 第一病棟
1923年6月16日に 開業した『湊海軍病院』の第一病棟です。サンルームや娯楽室があり、娯楽室にはピアノや蓄音機もありました。また、大浴場は天然温泉になっていました。現役の病院敷地内に建っていますが、現役の病院の方も老朽化が問題になっており、移転計画がある為、近々、解体されるかもしれません。
※管理人がいます。

東京陸軍第一造兵廠 遠江射場
1940年7月に開設した陸軍の発射試験場です。写真は高射砲電源供給室(奥)と厚さ250mmのコンクリート壁で出来た倉庫(手前)です。当時は砲廠、火薬庫、事務所、兵舎、発射施設、着弾地、観測施設、軍用軌道などが点在していましたが、現在は、全長49.5mの射場トンネル、観的壕、電源室、兵舎、24cm榴弾砲の八角形の砲座、火薬庫溶鉱炉施設、軍用軌道の駅(プラットホーム)などが残っています。
※管理されています。

明野陸軍飛行学校 天竜分教場
1942年4月に開設し、東西1600mの滑走路2本、格納庫4棟、兵舎、試射場などがありました。九六式戦闘機、一式戦闘機(隼)、二人乗り練習機などが配備されました。1944年6月には第三教導飛行隊となり、1945年4月頃から格納庫が解体され、近くの山林に分散隠蔽されるようになりました。現在、跡地は袖浦公園となり、格納庫の遺構が公園のモニュメントと化しています。
※一般公開されています。

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