軍艦島 

Warship Island


軍艦島外周

端島は見た目が軍艦に似ていることから、通称『軍艦島』と言われ、長崎港の沖18kmの海上に浮かぶ半人工島である。三菱の所有地なので、許可がなければ上陸できない。 1810年頃に石炭が発掘され、佐賀藩により採掘されたが、その後、三菱が買収し、約90年間の大炭坑時代が始まる。島に電気が引かれたのは1918年からである。
中央高地部とその周辺が自然島であり、海に面した平坦部のほとんどが埋めたてによる人工島で島の3分の2が人工島になっている。 最盛期には480m×160mの土地に5300人以上もの人が住んでおり、日本一の人口密度であった。しかも島の40%は作業区であり、居住区は残りの60%だけである。
緑がなく建物だらけのこの灰色の島は、虜囚の島のように見えるが、実際は未来少年コナンに出てくるインダストリアル島のような最先端の産業島であった。 1974年4月20日に閉山し、無人島となった。その後、台風による大波などにより建物は次々と崩壊した。人による破壊よりも、自然災害による破壊が圧倒的に凄い島である。

第1号棟(端島神社)

端島神社(第1号棟)。1936年完成。1階建て。かつての大きな社は崩壊したので、崖淵にあった神殿を中央に移築した。 緑道から、端島神社の神殿を撮影。人工地盤の上に建っている。

第2号棟(職員住宅)

職員住宅(第2号棟)。1950年完成。鉄筋3階建て。高台に建っている。奥にあるのは端島神社。左側は第19号棟。部屋の開口部が大きく、日照が良く、高台で眺望もいい居住性に優れた物件。個々の部屋の玄関が独立しており、パブリックスペースがない分、セキュリティー面も高いが、軍艦島特有のコミュニティは失われた。 第2号棟の部屋の鉄製防火扉。潮風の影響でボロボロに錆びている。

第3号棟(高級職員住宅)

高級職員住宅(第3号棟)。1959年完成。鉄筋4階建て。最も高台に建っているので、眺望は最高。旧3号棟と旧4号棟を潰して作られた。軍艦島で内湯があるのは、鉱長社宅・職員クラブ・清風荘を除けば、この第3号棟のみである。半地階は電気室と倉庫になっている。 第3号棟の下部にかかる美しい蔦。緑のなかった軍艦島はここまで成長した。

第5号棟(鉱長社宅)

鉱長社宅(第5号棟)。1950年完成。木造2階建て。高台にあるので波の被害を受けず、木造でも残っていた。島内唯一の一戸建て高級邸宅であり、海底水道開通以前に唯一、内湯があった物件である。屋根が亜鉛鍍鉄製だったため、塩害による侵食が激しく、島内の木造建物中で一番早くに崩壊が始まった。

第6号棟(独身職員寮)

職員合宿(第6号棟)跡地。1936年完成。木造2階建て。奥には気象観測所が見える。独身職員寮として建てられた。

第7号棟(職員クラブハウス)

職員クラブハウス(第7号棟)跡地。1953年完成。木造2階建て。会社の用件で来島した出張者の宿泊施設である。普段は、高級職員の集会・宴会・接待・娯楽(囲碁やビリヤード等)に利用されていた。緑のない軍艦島の中では、珍しく玄関前の植え込みも良く手入れが行き届いていたという。

第8号棟(高級職員社宅+共同展望浴場)

高級職員社宅(2階以上)と共同展望浴場(1階半地下部)(第8号棟)。1919年完成。木造と鉄筋3階建て。 第8号棟北側。木造部分は崩壊して、材木は第12号棟跡地側に積もっている。 第8号棟1階の共同浴場の廊下。
第8号棟1階共同浴場女湯。他の鉱員社宅の共同浴場は地下なのに、高台にあるので眺めはイイ。高級社宅だからだろうか。 第8号棟1階共同浴場女湯の脱衣所。丸い窓が印象的。 第8号棟1階共同浴場男湯。海が展望できるイイ風呂だ。
山手通りから見た第8号棟。手前には第6・7号棟の倒壊した木材が雪崩している。        

第12号棟(職員社宅)

職員社宅(第12号棟)跡地。1925年以前に完成。木造3階建て。各階1戸の計3戸しかない小さな建物。各階への内階段はなく、直接各階に出入する形になっている。ピロティは山手通りの一部をなしている。

第13号棟(教職員用住宅)

教職員用住宅(公営住宅)(第13号棟)南側。1967年完成。鉄筋4階建て。現在残っている鉄筋アパート群の中で最も新しい建物である。岩盤スレスレに建物が建っているので、一部、岩盤側で外部塗装がなされていない箇所がある。 第13号棟に絡む蔦。廃墟に絡む蔦は美しいものだ。

第14号棟(中央社宅)

中央社宅(職員社宅)(第14号棟)。1941年完成。鉄筋5階建て。木造と鉄筋混交の旧14号棟が取り壊された跡地に建てられた。第14号棟の北側の柱は、第20号棟の直結している。即ち、第20号棟の上に建っているのだ。

日給社宅(第16号棟〜第20号棟)

日給社宅(第16号棟)廊下。1918年完成。鉄筋9階建ての鉱員社宅。東側から西側を撮影。 第16号棟2階西端の通路。地獄段とつながっている。奥は第17号棟。 第16号棟4階西端の通路。かつては、この場所に公衆便所があった。
第16号棟(右)と第17号棟(左)の間。木造の手摺は朽ちて崩落している。東側から西側を撮影。 第16号棟(右)と第17号棟(左)の間。北西側は同じ階が通路で繋がっている。 第16号棟と第17号棟の間の大廊下に落ちていた扇風機の残骸。スゴイ朽ち方。
日給社宅(第17号棟)(左)(1918年完成の鉄筋9階建て)と第18号棟(右)の間。南東側は階段で階下に繋がっている。 第17号棟の一室にあった『金太郎兄弟』。上が弟、下が兄。 第17号棟の通路に残っていた編み機。腐食が激しい。
第17号棟の通路に残っていた洗濯機。手回し式の水絞り器が懐かしい。海底水道完成後に導入された。 第17号棟のある室内に残っていた簡易便器、通称おまる。 第17号棟と第18号棟の間の階段。木製の欄干は今にも崩れそうだった。
第17号棟と第18号棟の間の通路の9階部分。 日給社宅(第18号棟)。1918年完成の鉄筋9階建ての鉱員社宅。北東側をを撮影。 第18号棟の室内に残されていたダイヤル式の旧型TV。
第18号棟に残っていた1965年製の電気使用量表示板。当然、電気は止まっている。 第18号棟の屋上庭園。緑の少ない軍艦島に緑を宿す為に作られた。 第18号棟(左)と第19号棟(右)の間。階段で下に降りれる様になっていた。
第18号棟(左)と第19号棟(右)の間。この1階出入口に『厚生食堂』があった。 第19号棟の9階部分。神社の参道から撮影。弓道場の建物が崩壊している。 日給社宅(第19号棟)(左)(1918年完成の鉄筋9階建て)と第14号棟(右)の間。奥に見えるのは第2号棟。
第19号棟にある『集会所』。木製の看板が綺麗に残っていた。 第19号棟の集会所入口内にあったカマド。日給社宅はみなこのタイプのカマドだった。 第19号棟と第20号棟の間の大廊下にあったヘルメット。
日給社宅(第20号棟)の遠景。1918年完成。鉄筋7階建て。山手通りの第14号棟脇より撮影。 日給社宅(第16〜20号棟)屋上の空中庭園。今は雑草だらけ。 軍艦島の天井。日給社宅の屋上庭園、端島神社、第3号棟を望む。

第21号棟(警察派出所+鉱員社宅)

警察派出所と鉱員社宅(第21号棟)。1954年完成。鉄筋5階建て。木製格子の留置所が設置してある。 第21号棟と第22号棟の間。奥にあるのは第13号棟。
第21号棟の屋上にある木造残骸。左奥に見える白い建物は第13号棟。雨が降ると屋上はプールのようになる。それだけ天井の防水がしっかりしているということだ。子供達の遊び場だったらしい。    

第22号棟(高島町端島役所+公営住宅)

役場「高島町端島支所」(1階)と公営住宅(公務員用)(第22号棟)。1953年完成。鉄筋5階建て。建設当時は高浜町(現在の野母崎町の一部)役場の支所であった。 映画館跡地から第22号棟を望む。映画館は台風で倒壊した。

第23号棟(泉福寺)

泉福寺(第23号棟)跡地(右手前)。1階が社宅で2階が寺院だった。1921年完成。木造2階建て。前面に本堂、背面に住職宅、地下には女子独身者の長屋4室(看護婦寮)があった。 崩壊した第23号棟及び第50号棟。台風による荒波で壊滅した。
泉福寺にあった御本尊だろうか。映画館の跡地の奥に飾ってあった。閉山時に御本尊と仏具は映画館内に梱包され放置され、雨ざらしになっていたという。    

第25号棟(職員社宅+清風荘+白水苑)

職員社宅と旅荘(2階)とスナックバー(1階)(第25号棟)。1931年完成。鉄筋5階建て。 第25号棟1階の入口。高浜町時代には役場支所として使用され、賃金支払いの窓口として使用された時期もある。 第25号棟1階にあった掲示板。役場支所時代の名残だろう。
第25号棟の前に落ちていた『清風荘』の看板。第25号棟2階は一般来島者や行商人の宿泊施設であった。 第25号棟の1階。島内唯一のスナックバー『白水苑』があった。    

第26号棟(下請飯場用住居)

下請飯場用住居(第26号棟)。1966年完成。軽量鉄筋プレハブ2階建て。閉山翌年に早くも風で屋根が吹き飛び、その後、全体が崩壊して、第25号棟側に崩れ落ち、グチャグチャになってしまった。その残骸が写真に写っている。写真左側が第26号棟が建っていた高台である。この跡地は、軍艦島で最も早く人が住みついた場所(旧船頭小屋)であると言われている。

第30号棟(旧鉱員社宅)

旧鉱員社宅(下請け飯場)(第30号棟)。1916年完成。鉄筋7階建て。 第30号棟の東側。夕方の撮影の為、影になってしまった。 第30号棟は、中央の吹きぬけ側が廊下と階段になっている。
第30号棟の北壁には焼却炉の跡がある。煙突部分には耐火レンガが使われている。 第30号棟内部。現存する軍艦島の中で最も古い建物。この時点で築85年である。 ここの4階で、おかっぱ頭の少女を見た。一瞬で消えたが、何でこんな所に?
第30号棟は『口』の字型になっていて、中心には吹き抜けがある。空が綺麗だ。 この第30号棟は、天井のコンクリートも剥がれかけ、階段も崩れていて危険極まりない。 第30号棟3階の廊下。これ以上の探索は危険。

第31号棟(鉱員社宅+共同浴場+郵便局+理容室)

鉱員社宅・共同浴場・郵便局(第31号棟)。1957年完成。6階建て。鉄筋2階に炭坑のズリを海中投棄するベルトコンベアがある。 第31号棟1階の廊下。かつては1階に郵便局があった。 第31号棟の東側。屋上にプレハブの2階建ての建物が増設されたので8階建てになっている。
第31号棟1階廊下。北東側の廊下。地下には共同浴場がある。海側にドカンと建っており、第48号棟、第51号棟同様に、建物自体が島の防潮壁になっている。 第31号棟の1階にあった『理容室』。 理容室の椅子や鏡台が綺麗に残っていた。理容室は他の場所にもあったのだが。

第39号棟(町営公民館)

町営公民館(第39号棟)。1964年完成。鉄筋3階建て。軍艦島には、独立した図書館がなかったので、この町営公民館の図書室がよく利用されていたようだ。今でも、本の一部が残っていた。 第39号棟の廊下。突き当りにはトイレがある。天井が抜けてしまっている。
第39号棟2階にある講堂。婦人会の活動拠点となっており、料理教室や生花教室などの各種の講習会やボランティア活動が行われていた。現在は、床の各所が抜けていて大変危険な状態である。 第39号棟にある黒板。2000年以降の落書きが目立つ。

第48号棟(鉱員社宅+地下パチンコ屋)

鉱員社宅(第48号棟)。1955年完成。鉄筋5階建て。南東側を撮影。他の建物とは空中廊下で繋がっておらず、軍艦島では珍しい単体建築になっている。また、海側にドカンと建っており、第31号棟、第51号棟同様に、建物自体が島の防潮壁になっている。 第48号棟の1階廊下。地下にはパチンコ屋があった。

第50号棟(映画劇場+多目的ホール『昭和館』)

昭和館(映画館)(第50号棟)跡地。1927年完成。鉄骨2階建て。映画劇場兼多目的集会所。固定椅子で400人ほど収容できたという。TV普及率の高かった軍艦島では、映画館としての活動は急速に収束し、組合活動や集会所として利用されたが、その役目も公民館に奪われてしまう。 崩壊した第50号棟。奥に建っているのは、第31号棟。
倒壊した映画館。左に泉福寺のコンクリート部分が残っている。右奥は第31号棟。映画館は、1970年に体育館が建設されてからは、単なる卓球場と化し、閉山時には、梱包用資材倉庫になってしまった。映画館の前には消防ポンプ小屋新聞・牛乳販売店があった。    

第51号棟(鉱員社宅+テナント)

鉱員社宅・テナント(第51号棟)。1961年完成。鉄筋8階建て。1956年の台風で壊滅した木造家屋群を取り壊して建てられた。東側を撮影。左奥は日給社宅群。半地階には酒屋、電気屋、雑貨屋やなどのテナント(個人経営店)が並んでいた。また、海側にドカンと建っており、、建物自体が日給社宅の防潮壁になっている。 第51号棟を防波堤側から撮影。手前は第48号棟。

第56号棟(高級職員社宅)

高級職員社宅(第56号棟)。1939年完成。鉄筋3階建て。他の鉱員社宅に比べて、間取りが高級である。写真は第56号棟と第65号棟の間の空中通路。第56号棟はかつての木造小学校の跡地に建てられた。 第56号棟と第57号棟の間を結ぶ空中廊下。 第56号棟と第57号棟の間の通路。奥に見えるのは第16号棟。

第57号棟(鉱員社宅+地下ピロティ商店街)

鉱員社宅と地下ピロティ商店街(第57号棟)。1939年完成。鉄筋4階建て。地下には木造メゾネットタイプの商店が増築された。屋上に各戸厨房の煙突がオブジェのように建っている。

第59号棟(鉱員社宅+地下購買所)

鉱員社宅と地下購買所(第59号棟)。1953年完成。鉄筋5階建て。奥に見えるのは第65号棟。 第59号棟、第60号棟の屋上に増設された鉄筋プレハブ住居。

第60号棟(鉱員社宅+地下購買所)

鉱員社宅と地下購買所(第60号棟)。1953年完成。鉄筋5階建て。第59〜61号棟は共通の地下室を持っている。第59〜60号棟の地下には端島最大の店舗である生活共同組合(生協)の販売部店舗と事務室があった。地下室天井で上部に建物のない部分には、円筒形のデッキグラスを1m角ほどにまとめたトップライトによる採光が各所に設置されている。

第61号棟(鉱員社宅+地下共同浴場)

鉱員社宅(第61号棟)。1953年完成。鉄筋5階建て。地下には共同浴場があった。第61号棟及びその両側の空き地の地下には地下共同浴場(男湯と女湯に分かれている)がある。第59〜61号棟は後に3棟とも屋上にアルミ板外壁の鉄筋プレハブ住居が増設され、6階建てになった。

第65号棟(鉱員社宅+屋上保育園・幼稚園)→第65号棟特集

鉱員社宅(第65号棟)。1945年完成。鉄筋9階建て。戦時中は迷彩塗装されていた。 児童公園。奥にあるのはコの字型をした第65号棟。 第65号棟に囲まれた児童公園。遊具が緑に埋もれていた。奥に見えるのは第66号棟。
第65号棟の南東側。下の赤い屋根は端島小中学校の体育館。 第65号棟の屋上には保育園・幼稚園が存在している。 第65号棟。突出している部分は、当初、エレベーターホールとして計画されたが、住居に転用された。
第65号棟の南西側。地獄段と緑道に繋がる空中廊下が7階にある。 第65号棟7階から伸びる空中廊下。右側に緑道に下りる階段がある。  

屋上保育園・幼稚園(第65号棟の屋上)

端島幼稚園・保育園。1952年に第65号棟屋上に完成した。 1937年には、高浜村立幼稚園が泉福寺(第23号棟)の本堂にあったが、その後、第65号棟屋上に移築した。 最盛期(1961年)には、園児220名、保母8名のマンモス幼稚園であった。
屋上保育園に残る滑り台。滑り台の下はプールになっている。ウォータースライダーだ。 建物の10階に幼稚園は危険だということで補助金申請が難攻したこともあった。 木製の床は酷く腐食していて、上を歩くと抜けてしまいそうである。

第66号棟(独身鉱員寮『啓明寮』)

独身鉱員寮『啓明寮』(第66号棟)。1940年完成。鉄筋4階建て。1階は鉱員集会所であり、宴会ができるように和風の作りになっており、浜通り側に玄関もついている。啓明寮は独身鉱員の宿舎である。 第66号棟(啓明寮)を上から撮影。通称『潮降り町』の一角をなす。
第66号棟。コの字型の内側の西側。端島初の地下室が作られた所であり、地下は浴場と倉庫になっている。海側は波が当たるので、トイレを配置し、小さな窓しか設置されていない。 啓明寮と第67号棟を結ぶ階段。独特の形状をなす。

第67号棟(独身鉱員寮)

独身鉱員寮(第67号棟)。1950年完成。鉄筋4階建て。第66号棟の増設部分にあたる。独身鉱員寮は第66号棟、第67号棟とも1階は、玄関ホール・大食堂・厨房・集会娯楽室・集会ホールといった共用スペースになっており、2階以上が宿舎になっている。 第65号棟と第67号棟の間の通り。渡り廊下もある。

第68号棟(端島病院隔離病棟)→端島病院特集

端島病院隔離病棟(第68号棟)。1958年完成。鉄筋2階建て。伝染病患者の隔離病棟であるが、主に赤痢や眼病患者が多かったようだ。 端島病院隔離病棟を上から撮影。

第69号棟(端島病院)→端島病院特集

端島病院(第69号棟)。1958年完成。鉄筋4階建て。1〜2階が診療及び治療室。3階は入院患者の病室。4階は医師・看護婦の宿舎であった。 奥は端島病院。目の前はテニスコートの跡地。 端島病院手術室。1階の角にある。
端島病院を上から撮影。医師は端島には定住せず、主に長崎医大から交替で一定期間出張して、診察や治療にやってきたという。 端島病院の裏側。超ブキミ。院内には未だに薬品の匂いが立ち込めている。  

第70号棟(端島小中学校)

端島小中学校正面(第70号棟)。1958年完成。鉄筋7階建て。かつては第56号棟の場所に木造小学校があった。 端島小中学校の裏側。1970年には中学生徒数235名、小学校児童524名がいた。 端島小中学校と第65号棟を結ぶ通路。7階で繋がっている。
端島小中学校と第65号棟を結ぶ空中廊下。朽ちていて通れない。端島は土地が狭く、高層アパートばかりなので、軍艦島の子供はかけっこは遅いが昇降運動能力には優れていたという。 端島小中学校の下は完全に浸水している。基礎が剥き出しで危険な状態だ。    

第71号棟(端島小中学校体育館・武道館・給食センター)

端島小中学校体育館(第71号棟)。1970年完成。2階建て。1階は給食センター武道場。2階が体育館。 端島小中学校とその体育館。端島神社の人工地盤上から撮影。

ちどり荘(教員住宅)

ちどり荘。鉄筋2階建て。教員住宅(公営住宅)であり、小学校の教員及び家族の為の住居である。メゾネットタイプの6戸の住居からなる。棟番号はついていない建物であるが、端島小中学校の建設後に建てられた。

貯水槽と無人灯台

山の頂上にそびえたつ貯水槽と無人灯台。軍艦島には各所に貯水施設がある。各家庭には水瓶が置いてあった。戦時中は、この貯水槽のスラブ上には対空機関砲が備え付けられていた。閉山前は、24時間体制で稼動していたので、船からその灯りが良く見えたらしいが、閉山後は真っ暗な島になってしまったので、隣接地に太陽電池で動く無人灯台が設置された。

作業区(端島炭坑)→端島炭鉱特集

事務所工場。2階部分はほとんど骨組みだけになってしまっている。 鍛冶工場。階段の残り方がイイ。 貯炭場ベルトコンベアの支柱群。作業区の遺構の中でも一際目立つ。
ドルシックナー(濃縮沈降装置)。 不純物を沈降させ、上澄みを海に流す為の排水処理施設。 レンガ製の倉庫。台風で崩壊した。  

地獄段

地獄段。第65号棟から緑道方面に。 地獄段の第65号棟と緑道を結ぶ架橋。 第56号棟と第65号棟を結ぶ空中廊下。下に伸びる階段は地獄段。
緑道から地獄段最上段方面を撮影。 地獄段最下部から上を見上げる。左奥は第56号棟。    

浜通り(町道)

浜通り。第65号棟と端島病院の間の通り。奥にあるのは第67号棟。 第60号棟、第59号棟と第65号棟の間の通路。 マーケットの跡地。基礎のみが残る。左側は第65号棟。
第65号棟と第59〜61号棟の間の通路。 第60号棟と第57号棟の間の通路。 第57号棟と第60号棟の間の通路。奥に地獄段が見える。
地獄段最下部の手前右側に質屋、酒屋、本屋、囲碁将棋場、外勤詰所があった。 第51号棟(左)と日給社宅(右)の間の通路。各階が空中廊下でつながっていた。 第48号棟と日給社宅の間。地面に緑が生えていた。左側は日給社宅群。
第48号棟と第20号棟の間(浜通り)にある木造残骸。生協の建物の残骸が流れたものと思われる。 第20号棟と第21号棟の間。ここに『生協』があった。奥にあるのは第14号棟。 児童公園。奥は第22号棟。左は映画館。泉福寺は崩壊して木片だけになってしまった。

山手通り

山手通り。右は第3号棟、奥は第2号棟。 山手通りから見た第8号棟。木造部分が全壊していて。鉄筋部分が残って建っている。 第30号棟(右)と第26号棟(左)の間の通路と空中廊下。
第25号棟東側。灯台のある斜面との間の木造の空中廊下は崩壊していた。 山手通りから第13号棟を望む。手前は第12号棟跡地。 山手通りから見た職員社宅(第12号棟)跡地。奥に見えるのは、第13号棟と第22号棟。

中通り

中通り。第25号棟(右)と第31号棟(左)の間の通路。中通りは、ほとんどが建物の中のピロティになっている。 第31号棟と第25号棟の間にたくさん落ちている木材。木造の欄干などが崩落して積もった。

緑道

緑道脇にある「」。周囲を丈の高い草に覆われていた。 右側斜面にあるのが緑道。夏場は草に覆われていて歩行困難である。 緑道から見た貯炭場ベルトコンベアの支柱群。海の奥に見えるのは高島。

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※軍艦島への渡航方法、許可の申請方法等のアクセス方法に関するお問い合わせには、

一切応じませんので、ご了承下さい。


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