軍艦島
Warship Island
軍艦島外周
第1号棟(端島神社)
第2号棟(職員住宅)
職員住宅(第2号棟)。1950年完成。鉄筋3階建て。高台に建っている。奥にあるのは端島神社。左側は第19号棟。部屋の開口部が大きく、日照が良く、高台で眺望もいい居住性に優れた物件。個々の部屋の玄関が独立しており、パブリックスペースがない分、セキュリティー面も高いが、軍艦島特有のコミュニティは失われた。 | 第2号棟の部屋の鉄製防火扉。潮風の影響でボロボロに錆びている。 |
第3号棟(高級職員住宅)
高級職員住宅(第3号棟)。1959年完成。鉄筋4階建て。最も高台に建っているので、眺望は最高。旧3号棟と旧4号棟を潰して作られた。軍艦島で内湯があるのは、鉱長社宅・職員クラブ・清風荘を除けば、この第3号棟のみである。半地階は電気室と倉庫になっている。 | 第3号棟の下部にかかる美しい蔦。緑のなかった軍艦島はここまで成長した。 |
第5号棟(鉱長社宅)
鉱長社宅(第5号棟)。1950年完成。木造2階建て。高台にあるので波の被害を受けず、木造でも残っていた。島内唯一の一戸建て高級邸宅であり、海底水道開通以前に唯一、内湯があった物件である。屋根が亜鉛鍍鉄製だったため、塩害による侵食が激しく、島内の木造建物中で一番早くに崩壊が始まった。 |
第6号棟(独身職員寮)
第7号棟(職員クラブハウス)
職員クラブハウス(第7号棟)跡地。1953年完成。木造2階建て。会社の用件で来島した出張者の宿泊施設である。普段は、高級職員の集会・宴会・接待・娯楽(囲碁やビリヤード等)に利用されていた。緑のない軍艦島の中では、珍しく玄関前の植え込みも良く手入れが行き届いていたという。 |
第8号棟(高級職員社宅+共同展望浴場)
第12号棟(職員社宅)
第13号棟(教職員用住宅)
教職員用住宅(公営住宅)(第13号棟)南側。1967年完成。鉄筋4階建て。現在残っている鉄筋アパート群の中で最も新しい建物である。岩盤スレスレに建物が建っているので、一部、岩盤側で外部塗装がなされていない箇所がある。 | 第13号棟に絡む蔦。廃墟に絡む蔦は美しいものだ。 |
第14号棟(中央社宅)
中央社宅(職員社宅)(第14号棟)。1941年完成。鉄筋5階建て。木造と鉄筋混交の旧14号棟が取り壊された跡地に建てられた。第14号棟の北側の柱は、第20号棟の直結している。即ち、第20号棟の上に建っているのだ。 |
日給社宅(第16号棟〜第20号棟)
第21号棟(警察派出所+鉱員社宅)
警察派出所と鉱員社宅(第21号棟)。1954年完成。鉄筋5階建て。木製格子の留置所が設置してある。 | 第21号棟と第22号棟の間。奥にあるのは第13号棟。 | ||
第21号棟の屋上にある木造残骸。左奥に見える白い建物は第13号棟。雨が降ると屋上はプールのようになる。それだけ天井の防水がしっかりしているということだ。子供達の遊び場だったらしい。 |
第22号棟(高島町端島役所+公営住宅)
役場「高島町端島支所」(1階)と公営住宅(公務員用)(第22号棟)。1953年完成。鉄筋5階建て。建設当時は高浜町(現在の野母崎町の一部)役場の支所であった。 | 映画館跡地から第22号棟を望む。映画館は台風で倒壊した。 |
第23号棟(泉福寺)
泉福寺(第23号棟)跡地(右手前)。1階が社宅で2階が寺院だった。1921年完成。木造2階建て。前面に本堂、背面に住職宅、地下には女子独身者の長屋4室(看護婦寮)があった。 | 崩壊した第23号棟及び第50号棟。台風による荒波で壊滅した。 | ||
泉福寺にあった御本尊だろうか。映画館の跡地の奥に飾ってあった。閉山時に御本尊と仏具は映画館内に梱包され放置され、雨ざらしになっていたという。 |
第25号棟(職員社宅+清風荘+白水苑)
第26号棟(下請飯場用住居)
下請飯場用住居(第26号棟)。1966年完成。軽量鉄筋プレハブ2階建て。閉山翌年に早くも風で屋根が吹き飛び、その後、全体が崩壊して、第25号棟側に崩れ落ち、グチャグチャになってしまった。その残骸が写真に写っている。写真左側が第26号棟が建っていた高台である。この跡地は、軍艦島で最も早く人が住みついた場所(旧船頭小屋)であると言われている。 |
第30号棟(旧鉱員社宅)
第31号棟(鉱員社宅+共同浴場+郵便局+理容室)
第39号棟(町営公民館)
第48号棟(鉱員社宅+地下パチンコ屋)
鉱員社宅(第48号棟)。1955年完成。鉄筋5階建て。南東側を撮影。他の建物とは空中廊下で繋がっておらず、軍艦島では珍しい単体建築になっている。また、海側にドカンと建っており、第31号棟、第51号棟同様に、建物自体が島の防潮壁になっている。 | 第48号棟の1階廊下。地下にはパチンコ屋があった。 |
第50号棟(映画劇場+多目的ホール『昭和館』)
第51号棟(鉱員社宅+テナント)
鉱員社宅・テナント(第51号棟)。1961年完成。鉄筋8階建て。1956年の台風で壊滅した木造家屋群を取り壊して建てられた。東側を撮影。左奥は日給社宅群。半地階には酒屋、電気屋、雑貨屋やなどのテナント(個人経営店)が並んでいた。また、海側にドカンと建っており、、建物自体が日給社宅の防潮壁になっている。 | 第51号棟を防波堤側から撮影。手前は第48号棟。 |
第56号棟(高級職員社宅)
高級職員社宅(第56号棟)。1939年完成。鉄筋3階建て。他の鉱員社宅に比べて、間取りが高級である。写真は第56号棟と第65号棟の間の空中通路。第56号棟はかつての木造小学校の跡地に建てられた。 | 第56号棟と第57号棟の間を結ぶ空中廊下。 | 第56号棟と第57号棟の間の通路。奥に見えるのは第16号棟。 |
第57号棟(鉱員社宅+地下ピロティ商店街)
第59号棟(鉱員社宅+地下購買所)
第60号棟(鉱員社宅+地下購買所)
鉱員社宅と地下購買所(第60号棟)。1953年完成。鉄筋5階建て。第59〜61号棟は共通の地下室を持っている。第59〜60号棟の地下には端島最大の店舗である生活共同組合(生協)の販売部店舗と事務室があった。地下室天井で上部に建物のない部分には、円筒形のデッキグラスを1m角ほどにまとめたトップライトによる採光が各所に設置されている。 |
第61号棟(鉱員社宅+地下共同浴場)
鉱員社宅(第61号棟)。1953年完成。鉄筋5階建て。地下には共同浴場があった。第61号棟及びその両側の空き地の地下には地下共同浴場(男湯と女湯に分かれている)がある。第59〜61号棟は後に3棟とも屋上にアルミ板外壁の鉄筋プレハブ住居が増設され、6階建てになった。 |
第65号棟(鉱員社宅+屋上保育園・幼稚園)→第65号棟特集
屋上保育園・幼稚園(第65号棟の屋上)
第66号棟(独身鉱員寮『啓明寮』)
第67号棟(独身鉱員寮)
独身鉱員寮(第67号棟)。1950年完成。鉄筋4階建て。第66号棟の増設部分にあたる。独身鉱員寮は第66号棟、第67号棟とも1階は、玄関ホール・大食堂・厨房・集会娯楽室・集会ホールといった共用スペースになっており、2階以上が宿舎になっている。 | 第65号棟と第67号棟の間の通り。渡り廊下もある。 |
第68号棟(端島病院隔離病棟)→端島病院特集
第69号棟(端島病院)→端島病院特集
第70号棟(端島小中学校)
第71号棟(端島小中学校体育館・武道館・給食センター)
ちどり荘(教員住宅)
貯水槽と無人灯台
山の頂上にそびえたつ貯水槽と無人灯台。軍艦島には各所に貯水施設がある。各家庭には水瓶が置いてあった。戦時中は、この貯水槽のスラブ上には対空機関砲が備え付けられていた。閉山前は、24時間体制で稼動していたので、船からその灯りが良く見えたらしいが、閉山後は真っ暗な島になってしまったので、隣接地に太陽電池で動く無人灯台が設置された。 |
作業区(端島炭坑)→端島炭鉱特集
事務所工場。2階部分はほとんど骨組みだけになってしまっている。 | 鍛冶工場。階段の残り方がイイ。 | 貯炭場ベルトコンベアの支柱群。作業区の遺構の中でも一際目立つ。 | |||
ドルシックナー(濃縮沈降装置)。 不純物を沈降させ、上澄みを海に流す為の排水処理施設。 | レンガ製の倉庫。台風で崩壊した。 |
地獄段
地獄段。第65号棟から緑道方面に。 | 地獄段の第65号棟と緑道を結ぶ架橋。 | 第56号棟と第65号棟を結ぶ空中廊下。下に伸びる階段は地獄段。 | |||
緑道から地獄段最上段方面を撮影。 | 地獄段最下部から上を見上げる。左奥は第56号棟。 |
浜通り(町道)
山手通り
山手通り。右は第3号棟、奥は第2号棟。 | 山手通りから見た第8号棟。木造部分が全壊していて。鉄筋部分が残って建っている。 | 第30号棟(右)と第26号棟(左)の間の通路と空中廊下。 | |||
第25号棟東側。灯台のある斜面との間の木造の空中廊下は崩壊していた。 | 山手通りから第13号棟を望む。手前は第12号棟跡地。 | 山手通りから見た職員社宅(第12号棟)跡地。奥に見えるのは、第13号棟と第22号棟。 |
中通り
緑道
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※軍艦島への渡航方法、許可の申請方法等のアクセス方法に関するお問い合わせには、
一切応じませんので、ご了承下さい。