War Ruins in Kanagawa

〜神奈川県の戦争遺跡〜


空技廠 貝山地下司令部壕
正式名称は『海軍航空技術廠 貝山地下司令部』といいます。3つの地下要塞からなり、会議室、炊事場、食糧倉庫、トイレなどの遺構がハッキリと見ることが出来る総延長2kmの地下壕で、何箇所かに階段が設けられ、山の上に抜けられる構造になっていました。現在は、壕内を整備して、一般公開することが検討されています。
※管理されています。

空技廠 夏島地下壕
正式名称は『海軍航空技術廠 夏島地下壕』といいます。三層構造からなる巨大な地下要塞で、総延長は1.8kmとも言われています。1階層部分は、零戦40機分の格納庫(掩体壕)になっていました。海軍の食器など、当時の遺物がたくさん残っている貴重な壕です。現在は、壕内を整備して、一般公開することが検討されています。
※管理されています。

空技廠 浦郷地下工場
正式名称は『海軍航空技術廠 浦郷地下工場』といいます。1944年から実際に稼動していた兵器工場で、総延長13km、総面積4万m2と大規模な地下工場でした。数千人の工員が特攻兵器である『桜花』『秋水』などの部品製造を行っていました。壕内には碍子や井戸などの多数の遺構が残っています。
※管理されています。

海軍工廠造兵部 船越地下工場
正式名称は『横須賀海軍工廠造兵部 船越地下工場』です。1941年に開設された『横須賀海軍工廠造兵部』の地下疎開工場です。海軍工廠造兵部には、砲熕工場、機銃工場、水雷工場、鍛錬工場、製缶工場、木工工場、有線工場、音響工場などがありました。現在は大部分が水没しています。
※管理されています。

海軍工廠造兵部 田浦地下工場
正式名称は『横須賀海軍工廠造兵部 田浦地下工場』です。1941年に開設された『横須賀海軍工廠造兵部』の地下疎開工場です。 現在は、地下壕内部にアスベストのようなグラスファイバー状のものや、建築廃材などが大量に投棄され、その状態で入口を土嚢で封鎖されています。
※管理されています。

海軍工廠造兵部 長浦地下壕
横須賀海軍工廠造兵部長浦火工工場の防空施設で、待避壕として利用された他、材料倉庫にも使われていたようです。防空壕なので天井が低いのが特徴です。写真のように、T字型のコンクリートの水槽のような構造があるのが特徴で、蛇口や塩化ビニール管が壁から外に向かって出ていたので、戦後は貯水槽として再利用していたようです。火工庫側の坑口は2013年に擁壁で封鎖されました。
※管理されています。

高座海軍工廠 芹沢地下工場
1943年に建設された海軍航空兵器製造工場が『海軍高座工廠』であり、その地下疎開工場が『芹沢地下工場』です。『中丸地下工場』とも呼ばれています。高座工廠では、局地戦闘機『雷電』を製造していました。現在は、案内板が立っていますが、一部を除いて入口が封鎖されています。
※管理されています。

海軍軍需部 比与宇地下壕
正式名称は『横須賀海軍軍需部比与宇火薬庫』といい、総延長2326.8mの地下壕でトンネルを挟んで北側と南側の2箇所に「地下壕が存在します。トンネル内まで引き込み線が延びており、この地下火薬庫からトンネル内で列車に弾薬、火薬を積み込むことで、上空から発見されるのを防いでいた弾薬・火薬庫です。
※管理されています。

東京航空計器 井田山地下工場
1937年に川崎市内に開業した『東京航空計器』という会社の地下疎開工場の跡地です。定針儀、水平儀、旋回計、昇降計、磁気コンパス、自動操縦装置などの航空計器類を作っていた会社で、1941年には国内最大の航空計器メーカーになり、軍需工場にもしていされていました。壕内は水没しており、危険物が散乱しています。
※管理されています。

海軍東京湾要塞 猿島要塞
1847年頃に江戸幕府により砲台が作られ、1877年に海軍、1881年に陸軍の管轄になり、1884年に要塞化し、1925年に海軍の管轄になり、海軍要塞になりました。太平洋戦争時には、高射砲陣地として5門の高射砲が配備されました。戦後、米軍に接収されましたが、1961年に返還されました。1993〜1995年の間は立入禁止になっていましたが、現在は、定期渡航船により上陸可能になっています。
※一般有料公開されています。

陸軍東京湾要塞 観音崎砲台
1812年に海防のために砲台が作られたのが始まりで、1880年に本格的に要塞が作られ、猿島、富津岬、第一〜第三海堡と共に、東京湾要塞として首都防衛の前線を成していました。レンガ造りのトンネルの中に弾薬庫などがあり、第一〜第四砲台、三軒家砲台、南門砲台、大浦砲台などがあります。
※一般無料公開されています。

藤沢海軍航空隊 燃料庫
1944年に開隊した航空無線電波教育を担当した練習航空隊の燃料庫です。民間企業の敷地内にあった為、許可がないと見学できませんでしたが、先日、その敷地内の巨大工場が解体され、燃料庫も地面から顔を出したので、撮影してきました。現在は燃料庫も解体されています。
※解体されました。

海軍東京通信所 蟹ヶ谷通信壕
正式名称は『海軍東京通信所蟹ヶ谷分遣隊耐強受信壕』といいます。1930年、日本海軍は蟹ヶ谷に無線通信所を設置し、1937年から『東京通信所蟹ヶ谷分遣隊』と呼ばれるようになりました。1943年に、受信専門の地下通信所が作られ、世界中の情報を傍受して、東京通信所や連合軍司令部に情報を伝えていました。
※保存・管理されています。

第三高射機銃中隊 田浦監視壕
正しくは『第一高射機銃大隊 第三高射機銃中隊 田浦陣地』とでもいうのでしょうか。文献もないので正式名称はわかりませんが、東京湾を監視するための壕であったようです。 コンクリート製の地下室に、横に細長い窓が2箇所ついていました。
※管理されています。

横須賀海軍軍需部
第三水雷庫
1923年4月1日に開設された横須賀海軍軍需部の長浦倉庫の1つです。1917年に建設されたレンガ造りの倉庫ですが、上からモルタルが吹き付けられている為、コンクリートのような灰色になっています。2010年までは相模運輸のF号倉庫として転用されていましたが、2013年以降は売地になっていました。
※転用されています。

第二海軍航空廠横須賀補給工場
火工倉庫
1941年9月に千葉県の木更津に置かれた第二海軍航空廠の補給工場の1つとして横須賀の行基地区に置かれた施設の一部です。倉庫の裏手の山には海軍工廠造兵部長浦地下工場もありました。戦後は、曙機械製作所の工場として転用されていましたが、新工場に機能が移転し、この旧工場は廃墟化していました。2013年に解体され、現在は陸上自衛隊横須賀造修補給所になっています。
※解体されました。

第二海軍航空廠横須賀補給工場
魚雷倉庫
1941年9月に千葉県の木更津に置かれた第二海軍航空廠の補給工場の1つとして横須賀の行基地区に置かれた施設の一部です。倉庫の裏手の山には横須賀海軍軍需部比与宇火薬庫もありました。戦後は、長浦12号倉庫として会社の倉庫に転用されていましたが、その会社も撤退し、倉庫は廃墟化していました。2013年に解体され、現在は陸上自衛隊横須賀造修補給所になっています。
※解体されました。

第二海軍航空廠横須賀補給工場
発動機倉庫
1941年9月に千葉県の木更津に置かれた第二海軍航空廠の補給工場の1つとして横須賀の行基地区に置かれた施設の一部です。戦後は、相模運輸5号倉庫として転用されています。
※転用されています。

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