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八幡平(はちまんたい)。その名の通り開けた土地。これが、山の上にある。 |
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八幡平、安比高原。この辺りは、冬場はスキー場として賑わう。 |
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また、温泉地でもあり、あちこちに温泉郷が立ち並んでいる。 |
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アスピーテラインと呼ばれる観光登山道路を登ってゆく。 |
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すると、突然、コンクリートの廃墟群が現れる。 |
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松尾鉱山跡の鉱山アパートの廃墟群だ。 |
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松尾の硫黄の歴史は、明治15年、佐々木和吉という人が硫黄の大露頭を発見することに始まる。 |
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そして、大正3年8月、横浜の貿易商『増田屋』が、『松尾鉱業株式会社』を創設する。 |
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当時の主、増田嘉兵衛氏の二男、中村房次郎氏が社長についた。 |
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これを機に松尾鉱山が開山し、続々と発展を続け、東洋一の硫黄鉱山に成長した。 |
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松尾では、硫黄や硫化鉄鉱が採掘され、日本の硫黄生産の3分の1を担っていた。 |
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最盛期の従業員は実に4000人。鉱員数は1万5000人を数えた。 |
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鉄筋コンクリート製、完全暖房のアパートや県内一の総合病院や劇場などが次々に建設された。 |
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最盛期には、第一線の芸能人までがわざわざ来たということである。 |
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標高1000m級の山の上に近代都市が出現したのである。 |
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ここにもラピュタは存在した。いや、山の上の軍艦島というべきなのだろうか。 |
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この鉱山アパート群がある地帯は、松尾鉱山の坑口に隣接した地域であった。 |
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かつては、アパート群の他、学校や郵便局も揃った一大都市を築いていた。 |
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隣に建っている『生活学園』の廃墟は、かつての松尾中学校の廃墟を改装したものである。 |
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国策にものった硫黄・硫化鉱の生産であったが、その後、衰退して行くことになる。 |
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昭和30年代に入り、安い外国産硫黄の輸入により、経営に暗雲が立ち込めた。 |
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そして、石油精製時の回収硫黄の出現により、硫黄鉱山は閉山を余儀なくされた。 |
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遂に、1969年11月、東洋一尾の硫黄鉱山であった松尾鉱山は閉山した。 |
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松尾鉱山が閉山してから、ゴーストタウンと化し、社宅群のほとんどが取り壊された。 |
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また、豪雪地帯であるため、雪による崩壊が激しく、このアパートもボロボロになっている。 |
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アパート内には、どこから来たのか、漬物石大の石がゴロゴロと転がっている。 |
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これはスゴイ!ダイナマイトが入っていた木箱だ。坑道掘削に使ったのであろう。 |
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雪の力は半端ではなく、コンクリートの部分以外はほとんど壊滅状態だ。 |
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しかし、部屋の隅々を探すと、雑誌や常備薬などが散乱している。 |
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当時の暮らしを思わせる遺品が、多少だが残っていた。 |
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各アパートには、「い〜ほ」の名前が付けられ、1階部分が連結している構造であった。 |
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この階段は、共同浴場に向かうための階段である。 |
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共同浴場は、「い〜ほ」棟が立ち並ぶエリアの中央の最上段にある。 |
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これが共同浴場。脱衣所の木製ロッカーが倒れている。恐らく雪の力であろう。 |
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ここは独身寮ではないので男女別の浴室があった。 |
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これは、共同浴場の脇にある廊下であるが、外に続いている。用途不明。 |
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「い〜ほ」の6棟以外にも、斜面の上の方に3棟の鉱山アパート廃墟が建っている。 |
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こちらは、3棟が独立して建っている。下の6棟よりもコンクリートが新しい。 |
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恐らく、後から増設したのであろう。中は比較的綺麗な箇所が多かった。 |
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この集落には、鉱山が運営する病院、小中学校、会館、鉄道など全てが揃っていた。 |
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用度部の売店はデパート並みの品ぞろえであったという。 |
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部屋は3DK(6畳2間と4畳半と台所)、全室スチーム暖房完備の快適生活だったという。 |
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。北の国の山の上なので、夏場は冷房なんて必要ない。その代わり、冬の暖房は必需品だ。 |
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当時の廊下の電灯の遺構が天井に残っていた。 |
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森永牛乳の牛乳入れ。妙な懐かしさを感じる。下町情緒を思い浮かべる瞬間だ。 |
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各部屋の上部には、番地と棟名と室号が書かれたプレートが付いていた。 |
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屋上は、風雨・風雪に晒されているせいか、最も崩壊が激しく見える。 |
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恐らく酸性雨の影響だろう。硫黄があるということは、ここは火山である。 |
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火山が出す亜硫酸ガスは、雨水に溶け、亜硫酸となり、それが酸化されて硫酸になる。 |
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硫酸を含む雨はコンクリートを溶かし、コンクリートをボロボロにしてしまう。 |
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その上、雪の重みがかかれば、コンクリートが崩れて行くのもわけないのだ。 |
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しかも、放置されてから30年も経っているのだ。朽ちて当然であろう。 |
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何故か、スニーカーが一足落ちていた。 |
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