Mine in Hokkaido

〜北海道の炭鉱遺産・鉱山遺跡〜


羽幌炭砿鉄道 羽幌炭砿本坑
1940年に開鉱し、1968年には年産113万トンの石炭を産出しましたが、エネルギー革命の煽りを受け、1970年11月2日に閉山。ホッパーやシックナー、地上40m、地下512mの巨大な立坑櫓など、多数の鉱山施設が残っていますが、地面にいきなり穴が開いている場所があるそうで、むやみに藪漕ぎをして施設内に入るのは危険です。
※管理されています。

住友石炭鉱業 奔別砿業所
1900年に奈良炭砿として開坑。1960年に建てられた国内最大級の立坑櫓が凛々しい炭鉱遺産。1966年11月1日に坑内でガス爆発事故が起こりました。1970年には年産142万トンにも及ぶ石炭産出量を誇りましたが、1971年10月25日に閉山。 建物は崩落の危険性がある為、立入禁止となっています。また、プレハブ工場の敷地内にあるため、撮影には許可が必要になります。
※管理人が常駐しています。道遺産指定。

北炭汽船 幾春別炭鉱
1920年に建てられた立坑櫓とその巻揚げ場の遺跡。この錦坑櫓は、現存する立坑櫓では北海道内最古で、地上10m、地下195m、内径4.5mの立坑になっています。1885年に開鉱し、1942年には年産18万トンの石炭産出量になりましたが、1953年に採炭停止し、1957年に廃鉱になりました。現在は、三笠市の博物館の敷地内に存在し、博物館が開館している時間帯なら自由に見学することができます。 但し、夏場は藪漕ぎをすることになるので注意が必要です。博物館でレンタサイクルを借りると、すぐに立坑櫓の場所まで行くことができます。
※管理されています。道遺産指定。

住友石炭鉱業 赤平炭砿
1895年に開鉱し、1994年に廃鉱。1963年に立てられた4段ゲージと呼ばれる4段のエレベーター(1段に18人で合計72人を一度に運べる)がある立坑櫓は当時、東洋一とまで言われました。現在でも再使用できるほど保存状態は良いのですが、建物の一部を住友石炭鉱業が使用しており、一般の人は内部には入れません。
※管理人がいます。転用されています。

三菱鉱業 美唄常盤台炭鉱
1913年に飯田炭鉱として開坑し、1915年に三菱鉱業の傘下に入りました。写真は、1923年に建てられた立坑櫓で、この美唄炭鉱では、入気用と排気用の立坑櫓が隣接して建っています。北海道で2番目に古い櫓です。1944年には年産180万トンにも及び、三菱鉱業の主力炭鉱の一つになっていましたが、1973年に閉山になりました。周辺は炭鉱メモリアル公園として整備され、この立坑櫓も朱色に塗られ、当時の面影を無くしてしまいました。すぐ近くに道内最大級のホッパーや開閉所のコンクリート施設、坑口跡などが残存しています。公園化しているので自由に見学することができます。
※一般公開されています。

北炭汽船 幌内炭鉱 第一立坑
1879年に開鉱し、1889年に北炭に払い下げられ、北炭幌内炭鉱となりました。1966年に幌内・新幌内の両炭鉱を地下でつなげて統合するために建てられた第一立坑櫓は入気用の合掌型立坑櫓で、50人乗りの二段ゲージ式になっていました。第二立坑櫓とは離れた位置に建っています。1989年9月に閉山し、周辺は工業団地になっており、この立坑櫓も、工場敷地内に建っています。 竪坑櫓の施設そのものは廃墟化していますが、隣接する建物は通電しており、まだ使用されています。見学には許可が必要になります。三笠ジオパークの施設の一部として保存されています。
※管理されています。

北炭汽船 幌内炭鉱 第二立坑
1879年に開鉱し、1889年に北炭に払い下げられ、北炭幌内炭鉱となりました。1974年に建てられた第二立坑櫓は排気用の立坑櫓です。第一立坑櫓とは離れた位置に建っています。1975年11月27日に地下1000mの7片坑道でガス爆発事故が起こり、多くの主力坑道を消火の為の注水で水没させてしまい、生産能力を落としました。閉山後は、民間企業の敷地内に残存していましたが、残念ながら2004年夏に立坑櫓が解体され、翌2005年には併設していた巻き上げ機室も解体されました。
※2004年に解体されました。

北炭汽船 新幌内炭鉱
1879年に開鉱した北海道初の洋式技術を取り入れた機械化された大規模炭鉱で幌内本沢炭鉱とも呼ばれました。1966年に幌内炭鉱に第一立坑櫓が建造され、地下深部で新幌内炭鉱とつながったことから、1967年に幌内炭鉱に統合されました。1989年9月に閉山し、その後、廃墟化しましたが、2005年以降、幌内炭鉱景観公園として整備され、現在は一般公開されています。
※一般公開されています。

三菱鉱業 芦別炭鉱
三菱芦別炭鉱は1921年に開鉱し、1933年に一時休山しました。1947年に再び開鉱し、1964年に廃鉱になりました。写真は1947年に建てられ三菱芦別炭鉱選炭機の建物で、閉山後、常磐木材の工場として再利用されましたが、その工場も廃業し、しばらく廃墟として残っていましたが、残念ながら2002年に解体されました。
※2002年に解体されました。

古河鉱業 浅野雨竜炭鉱
1930年に東本坑が開鉱し、翌1931年には選炭場が完成し、本格的に採掘が始まりました。1940年には年産15万トンにも及びました。1952年には古河鉱業の傘下に入りましたが、エネルギー革命の煽りを受け、1968年11月20日に閉山になりました。その後、ダム建設により出来た人工湖『ポロピリ湖』の湖底に、炭鉱施設が沈みました。ローマの水道橋のような施設が美しい炭鉱で、干水期にその姿を現し、一部の施設には近づくことができます。ポロピリ湖の展望台に当時の集落図が展示されています。 夏場は藪漕ぎが必要になり、春〜秋にかけて熊が出没するそうなので注意が必要です。
※管理されています。

明治鉱業 本岐炭鉱
1924年に庶路本岐炭鉱として開坑し、1939年に庶路炭砿と共に、明治鉱業の傘下に入り、庶路鉱業所本岐砿になり、1962年に庶路炭砿から独立しました。1964年に庶路炭砿は閉山するものの、本岐炭鉱は操業を続け、1969年6月に廃鉱になりました。現在は、林と草原の中にホッパーなどのたくさんのコンクリート施設が残ってい て、見ごたえがあります。
※管理されています。

羽幌炭鉱鉄道 築別炭鉱
1939年に太陽産業によって開鉱し、羽幌3坑(羽幌、上羽幌、築別)の中でも最大の規模を誇りました。1962年には500人収容の映画館が造られるなど、街は栄華を誇っていましたが、エネルギー革命の煽りを受けて、1970年に閉山になりました。 集落跡はたくさんの遺構が残っているため、今でも訪問者が絶えず、廃村にしては珍しく人気の観光スポットになっています。
※管理されています。

北炭汽船 真谷地炭鉱
1893年から北炭汽船によって開鉱され、1941年に平和鉱業所に所管が変わりましたが、1978年に再び、北炭の所管に変わりました。良質の原料炭を産出する炭鉱でしたが、1987年に閉山になりました。現在、敷地内は炭焼き施設になっているようで、きちんと管理されています。写真は、貨物列車用のホッパーで、かつては、ここから沼ノ沢駅まで約4.4kmの専用鉄道が走っていました。
※管理されています。

中外鉱業 上国鉱山
1939年に開坑した通称『上ノ国鉱山』と呼ばれているマンガン鉱の鉱山です。12基並ぶロケットのような構造物は、浮遊選鉱焙焼炉で、マンガン鉱山特有のプラントです。選鉱所は、山の裏側にあり、そこから索道で鉱石を運んでいました。1973年、Mn需要の低下から、焙焼炉は廃止となり、ズリから亜鉛や鉛や銀などを産出して稼働していましたが、1986年に閉山になりました。
※管理されています。

雄別炭礦鉄道 雄別炭礦
1920年に北海礦業鉄道により開鉱し、1924年に三菱鉱業に買収され、1944年に戦争のために、一時休山。翌1945年に再び操業を開始し、1964年には72.6万トンの出炭量を誇るほどでしたが、1970年2月27日に廃鉱となりました。現在は、林の中に木々に埋もれながらホッパー等が残っています。2007年に経済産業省が近代化遺産として認定したため、保存する方向になりました。
※管理されています。近代化遺産認定。

北炭汽船 赤間炭鉱
1941年に開鉱し、1965年に閉山。1999年頃までは原炭ポケットやホッパーなども残っていましたが、現在はこの選炭工場と近所に777段のズリ山階段があります。独特の形をしたベルトコンベア斜路が敷設している選炭工場の一部が史跡として保存されています。周辺は公園化しているので自由に見学することが出来ます。
※一般無料公開されています。

三菱鉱業 下○鉱山
1933年に鉱脈が発見され、1941年に三菱鉱業によって開鉱した銅山。1944年に軍需会社法の指定を受け、軍需工場として大きく発展、1974年頃には月産33000tを生産しましたが、貿易自由化により、海外からの低価格の輸入銅に負けて、1982年に閉山になりました。1980年〜1982年頃には動燃により、高レベル放射性廃棄物地層処分場としての試験が実施されました。鉱山施設のほぼ全てが残存しており、長いトロッコ軌道はなかなかの見ごたえでした。現在は、元が銅山だったために、今でも三菱の子会社によって、鉱廃水水処理施設が稼動しています。
※管理人がいます。一部稼動中です。

三井石炭鉱業 砂川鉱業所 
第一立坑櫓
1914年に三井鉱山によって砂川鉱業所が開設され、砂川炭砿が開坑しました。1940年には年産161万トンを記録し、この第一立坑は1953年に建造されました。1973年に三鉱山から石炭部門が分離して、三井石炭鉱業となりましたが、1987年7月14日に閉山になりました。閉山後も民間企業の作業場として利用されていました。ドラマ『北の国から』にも登場した立坑櫓です。この立坑櫓は山の上にあるのですが、麓の街の方には中央立坑櫓がありました。その中央立坑櫓の転用が2003年に廃止になり、それに伴って第一立坑櫓は2003年に解体されました。
※2003年に解体されました。

三井石炭鉱業 砂川鉱業所 
中央立坑櫓
1914年、三井鉱山によって砂川鉱業所が開設され、砂川炭鉱が開坑されました。この中央立坑は1967年に建造されました。1987年7月14日に閉山になりました。この中央立坑櫓は、1991年に財団法人宇宙う環境センターの地下無重力実験センターの落下塔(落下距離710m)として転用され、宇宙開発のっ研究のために微小重力実験が繰り返し実施されていましたが、2003年に実験センターが閉鎖され、そのタイミングで山の上の方にあった第一立坑櫓は解体されましたが、この中央立坑櫓は残されました。
※2003年に解体されました。

三菱雄別鉄道 浦幌炭砿
1895年に炭鉱王の古河市兵衛氏が発見して採掘がはじまり、1913年に大和鉱業が買収され、一時閉山した後、1933年に再び大和鉱業が操業しました。その後、三菱雄別炭鉱鉄道に買収され、尺別炭鉱の姉妹鉱となり、トンネルで2つの炭砿は鉄道で結ばれました。1950年には総人口が3600人となり、とても栄えましたが、1954年に閉山しました。写真は炭砿敷地内を走る鉄道の橋脚跡ですが、現在は、道路沿いにレンガ造りの職員住宅や森の中に坑口の跡が残っており、地図付きの案内板なども立っています。
※管理されています。

住友鉱山 鴻之舞金山
1915年に金鉱脈が発見され、1917年に住友金属鉱山の傘下に入り、本格的な操業が始まり、鉱山集落が出来ました。鴻ノ舞金山は、1936年には金の採掘量日本一になるほどでした 。第二次世界大戦中は、労働力不足を補うために、朝鮮人労働者が従事していました。1973年に資源の枯渇により廃鉱となり ました。鉱毒が出るので、鉱水処理施設はまだ稼動しているようです。
※管理されています。

住友石炭鉱業 上歌志内砿業所
第一立坑櫓
1927年に住友上歌志内炭砿第一立坑櫓として、人や石炭の運搬用として建造された深さ248mの立坑櫓です。1971年10月
に奔別炭砿と歌志内炭砿が閉山と共に赤炭砿に統廃合され、住友赤平炭砿排気立坑櫓となり、排気用の櫓に転用されました。写真の筒状のコンクリートは、その際に、排気効率をよくするために作られたものです。櫓は悲別ロマン座の建物の道路を挟んで向かい側に立っていました。1994年に閉山し、その後、12年ほど残っていましたが、残念ながら、2016年6月18日に解体されました。
※2016年6月に解体されました。

北炭汽船 万字炭鉱
1903年に開鉱し、1905年から万字炭砿として本格稼働しました。万字は最初に開発を進めてきた朝吹家の家紋である卍からとった名前です。1976年に異常な湧き水事故が起こり、技術面・採算面から見て復興不能と判断され、廃鉱になりました。木々の中に、ホッパーや坑口、変電所跡などが残っています。現在、炭鉱跡地は、万字炭山森林公園として整備されています。
※管理されています。

三井石炭鉱業 美唄(盤の沢)炭鉱
第二坑選炭場
東美唄地区にあるこの炭砿は、明治時代、徳田炭鉱として開坑し、1915年に新美唄炭鉱となり、1941年に三井鉱山の傘下には入り、三井美唄炭鉱になりました。1963年に閉山となりました。写真は第二坑(盤の沢坑)の原炭ポケットです。この形は三井型といって、三井系の鉱山に見られる円形じょうろ型のホッパーです。現在は、美唄浄水場の奥の山林の中にあるため、許可なしでは近づくことはできません。
※管理されています。

三井石炭鉱業 美唄(南美唄)炭鉱
南美唄地区にあるこの炭鉱は、1915年に沼貝炭鉱として開坑しました。1928年に三井石炭鉱業の傘下に入り、三井美唄炭鉱となりました。1955年には、当時、道内最大級で最新設備を投入した三井美唄互楽館も建造され、栄華を誇った炭鉱町でしたが、炭鉱自体が、規模は大きいものの、採炭量に問題があり、1963年に閉山となりました。しかし、閉山後も大きな集落は残り、今も当時を偲ばせる建物の数々が残っています。写真の煙突以外にも、ホッパーや変電所、坑口など、数多くの遺構を森の中に見ることができます。
※管理されています。

三菱雄別炭砿鉄道 尺別炭鉱
1918年、北日本鉱業株式会社の炭砿として開坑し、1928年に三菱鉱業に買収され、1946年の財閥解体の際に、雄別砿業所尺別炭砿になり、1949年に尺別炭砿として独立しました。1970年2月に閉山し、同年12月には木造住宅のほとんどが解体され、4000人以上いた人口のほとんどが流出し、街はゴーストタウン化しました。
※管理されています。

九州鉱山 太刀別炭鉱
1963年に開鉱した炭鉱で、炭鉱の本体は、隣接する昭和 炭鉱よりも山奥にありますが、この選炭場は、道路沿いのわかりやすい場所にあります。ここまで軌道で石炭を運んでいました。1969年に廃鉱になっているので、わずか6年しか操業していなかったことになります。炭鉱資料は、沼田町ふるさと資料館に保存されています。
※管理されています。

三菱鉱業 手稲金山
1890年頃から細々と採掘がされていた金山ですが、銅や銀も産出し、1935年に三菱鉱業により大規模経営がなされるようになりました。1939〜1941年には月6万トンの産出量を記録し、国内第2位の産金量を誇りました。1971年に廃鉱になりました。現在は、民間企業の敷地内の斜面にかつてのホッパーなどがせせり建っています。
※管理人がいます。

釧路興業 別保炭鉱
1893年に開坑し、1920年、三井釧路炭砿(大阪炭鉱)と釧路鉱業別保鉱(山県炭鉱)の2つが合併し、本格的に採炭が始まりました。1924年に電化し、1944年、戦時における国策により一時休山、1946年に再開するも、出炭状況が悪く、1949年11月に閉山しました。現在は、住宅街の隅の斜面に選鉱場の基礎や坑口の跡など、わずかな遺構が残っています。
※管理されています。

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