War Ruins in Hiroshima

〜広島県の戦争遺跡〜


芸予要塞 久野島北部砲台
日清戦争後、芸予要塞の一部として、大久野島北部に『北部砲台』が1900年から建設され、1902年、2箇所に合計8門の砲台が置かれました。1924年に武装解除されましたが、1929年以降、『陸軍造兵廠忠海製造所』が置かれ、太平洋戦争時は、毒ガスのタンクやその原料の貯蔵タンクが置かれていました。現在は一般公開されています。
※一般公開されています。

芸予要塞 久野島中部砲台
日清戦争後、芸予要塞の一部として、大久野島中部に『中部砲台』が1900年から建設され、1902年、4門の砲台が置かれました。日露戦争の際に、この砲台の28cm榴弾砲が旅順に送られました。1924年に武装解除されましたが、1929年以降、『陸軍造兵廠忠海製造所』が置かれ、毒ガスの原料置き場として使用されていました。現在は一般公開されています。
※一般公開されています。

芸予要塞 久野島南部砲台
日清戦争後、芸予要塞の一部として、大久野島南部に『南部砲台』が1901年から建設され、1902年、4門の砲台が置かれました。1924年に武装解除されました。現在は一般公開されていますが、半地下室は土砂で埋もれてしまっており、状態はあまりいいとは言えません。
※一般公開されています。

陸軍造兵廠 長浦貯蔵庫
6つの部屋からなり、各々に高さ11mほどのタンク(100tタンク)が内蔵され、イペリットやルイサイトといった毒ガスを貯蔵していました。内部が黒く焼け焦げていますが、これは不審火などではなく、戦後処理の際に、残留化学物質を火炎放射器で焼却処理した跡です。現在は、内部は崩落の危険性がある為、立入禁止になっています。
※管理されています。

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