War Ruins in Chiba

〜千葉県の戦争遺跡〜


海軍第二航空廠 
佐貫地下工場
木更津第二海軍航空廠八重原工場の疎開工場として、1944年11月頃から掘削された総延長9km(掘削面積80000平方フィート)ほどの地下軍需工場です。1945年7月に完成しました。第1工場〜第10工場まであり、山の地下に蜘蛛の巣状に地下壕が広がっています。ここは、木更津航空隊に配備された零戦などの航空機の整備工場であり、 工作機械は52台が納入され、従業員は277名が配備されました。発動機の修理工場があり、プロペラ、計器類、脚部部品、手榴弾の筒などが製造されていました。現在は、ゴルフ場開発のために、壕の一部が埋め立てられました 。
※管理されています。

海軍館山航空隊
赤山地下壕
海軍館山航空隊の司令部、海軍病院、発電施設、兵舎、燃料貯蔵庫、兵器庫などが疎開していました。総延長は1.6kmにもおよびます。戦後、菌類研究所として転用されており、その当時の所長に許可を得て、壕内全エリアの測量調査を行いました。現在は、文化財に指定されており、時間限定ですが、一般無料公開されています。
※一般公開されています。市指定文化財。

海軍洲ノ埼航空隊中島分遣隊
戦闘指揮所
1944年12月頃から、海軍館山航空隊の基地の南方にある標高128mの山の中腹に掘られた『本土決戦抵抗拠点  海軍洲ノ埼航空隊中島分遣隊戦闘指揮所壕』です。4階層からなる要塞で、上下の層が地下の階段でつながれていました。 龍の文様のある貴重な壕でもあります。
※管理人がいます。

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海軍洲ノ埼航空隊
一二八高地地下壕
海軍館山航空隊の基地の南方にある標高128mの山の麓に掘られた『本土決戦抵抗拠点一二八高地地下壕』です。アミダクジ状に地下壕が掘られています。貯水施設、井戸、排水溝などが完備されていることから、居住用の壕だったのではないかと思われます。
※管理されています。

海軍茂原航空隊 兵舎壕
1941年頃から、茂原市東郷の辺りに海軍基地(海軍二五二航空隊)が建設されました。その疎開地として、豊田地区にいくつかの地下壕が掘られ、この兵舎壕はその一つということになります。内部は10の部屋と山の上の方に上がる階段など、いくつかの出口があり、要塞化しています。
※管理されています。

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海軍茂原航空隊 海軍病院壕
海軍茂原航空隊の海軍病院が疎開していた壕で、中にベッドが並べられ、実際に使用されていたとされています。壕の一部が民家の資材置き場になっている為、壕の調査には、近所の寺の住職と、資材置き場として使用している民家の家主に許可を取って、測量調査をさせていただきました。
※管理されています。

日本火工 鵜原火薬庫
1933年3月海軍の要請で昭和火薬工業所を設立し、興津作業所で軍用カーリット爆薬を製造開始、1934年4月昭和火薬(株)と改称、1943年12月に日本火工(株)と改称、第55震洋隊向けの爆薬を製造・貯蔵し、1952年7月日本冶金工業に統合され、火薬加工部門となり、1957年11月30日に死者14名、負傷者17名の爆発事故発生。1975年12月に白河製造所に移転統合され、興津工場は廃止、現在は、一部は明海大学のセミナーハウス建造の為、解体されました。
※管理されています。一部解体。

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日立航空機 大網地下工場
日立航空機千葉工場の疎開工場として作られた地下工場(機体工場)で、第一〜第五工場まであります。計画面積120000平方フィートのうち44938平 方フィートが完成し ました。工作機械は80台が納入され、練習機用の機体や小型発動機(エンジン)を製作していました。現在は、第一〜第三工場までが残りますが、いずれも内部が水没しています。
※管理されています。

海軍茂原航空隊 掩体壕
太平洋戦争時、茂原市の三井東圧化学の工場敷地の辺りに、『海軍茂原基地』がありました。基地内の零戦を空襲から守るために建造されたのが、この『掩体壕』です。現在、茂原市内の掩体壕は10基残っているとされており、我々の調査では9基の掩体壕を発見することができました。市の指定史跡に指定されているものもあります。
※管理されています。市指定史跡。

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海軍香取航空隊 掩体壕
1944年に整備教育練習部隊として開隊した海軍香取航空隊の掩体壕です。地元では『干潟飛行場』と呼ばれていました。その後、実戦部隊が配備され、現在は、滑走路跡地が地図や航空写真でも確認できるほど、ハッキリとした十字型で残っています。その周辺に3基の掩体壕が残っています。
※管理されています。

陸軍 佐倉連隊
陸軍佐倉連隊は、日本で最も古い連隊の1つで、西南戦争、日清・日露戦争、太平洋戦争に参戦し、フィリピンのレイテ島にて壊滅しました。写真は通称『十三階段』と言われるもので、訓練用に使用されていた階段です。現在は、佐倉城址敷地内に、弾薬庫の跡、兵舎の跡など、いくつかの遺構を見ることができます。
※一般公開されています。

陸軍 野戦砲兵学校
1886年に開校した下志津原の『陸軍砲兵射的学校』が、1897年に『陸軍射撃学校』と改名し、ここ四街道の地に開校しました。更に1922年に『陸軍野戦砲兵学校』と改名し、重砲兵、高射砲兵、迫撃砲兵、自走砲兵、幹部候補生、下士官候補生、情報兵、観測兵、少年兵などの育成に務めました。現在、跡地は、市民公園や小学校になっています。
※一般公開されています。

昭和電工 興津工場 跡地
1926年10月日本沃土設立、1928年4月昭和肥料設立、1934年3月日本沃土が日本電気工業と改称、1939年6月日本電気工業と日本沃土が統合し、昭和電工設立、1941年8月16日に軍需工場に指定され、乾燥カジメ・アラメからヨードカリ(医薬品原料)や塩化カリ(肥料・硝石原料)を生産、硝石は隣接する日本火工で火薬製造に使用、1948年からはアルギン酸ソーダの生産も開始するも、業績が思わしくなく、廃止となり、現在は、解体された跡地が海水浴場の巨大な駐車場になっています。
※解体されました。

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